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南冥遺跡三洞辨證 KCI 등재

남명유적삼동변증

  • 언어KOR
  • URLhttps://db.koreascholar.com/Article/Detail/339878
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남명학연구 (The Nammyonghak Study)
경상대학교 경남문화연구원 (The Nammyong Studies Institute)
초록

本稿は南冥曺植の鄕里である嘉縣の板峴洞と南冥の「遊頭流錄」の末尾に出てくる獐項洞及び龍遊洞の位置についての近來の主張を批判的に檢討し,それを考證しようとするものである. 南冥一家の先瑩のある下板里の枝洞を板峴洞とする主張がうらが,當時の板峴洞は特に枝洞を指すというよりは,むしろ今日下板里とよ ばれる地域をあまねく稱したものである.松齋曺繼明は南冥の弟である桓の嫡孫であり,嫡子のなかった南冥は還曆を過ぎてから智異山の德山洞へ移り住もうとした時,承重卽ち祖先の祭祀を奉る責任とそれにまつわる先代の財産を桓に讓ったのであるが,その孫の松齋は壬辰 倭亂の時武功を立てて桓の後孫の中でもっと秀でた人物の一人である.彼は馬藏山の麓に住んだといわれるが,馬藏山は今日の下板村の向こう側にある小谷の終わりに位置する野山である.松齋は南冥の卒する四年前に生まれたので, 彼が幼年の頃馬藏山の麓に住んだとすれば,板峴洞の中心は今の下板村であったと見るべきである 下板村を除いて枝洞を含めた下板理の他の村はみな道路沿いに形成されている.從って, 我 はこれらの村がみな新しい道路の開設とともにできたのであり,完來の板峴洞はその上の方に上板村ができるにしたがって下板村とよばれるようになり,その故にもと板峴洞の中心であった村の名前にちなんでこの一帶がすべて下板里と名稱が變わるようになった,と推定することができる 龍遊洞は智理山のいろんな谷の中でも南冥がしばしば尋ねた所の一つであるが,これについては『晉陽誌』山川條に田頭西, 靑巖山にあると記されている.靑巖山は「大東輿地圖」に見えるが,それは今日の河東郡靑岩面と山淸郡矢川面との境をなしている主山あたりを指すものである. 田頭理とは今の河東郡橫川面の北側にある田垈理がその名前に由來するもので,『晉陽誌』が書かれた光海君ㆍ仁祖の頃にはこのあたりを含めた今日の靑岩面全體が田頭里と五臺里に屬していたようである.『晉陽誌』各里條の說明によれば田頭里は五臺里の南に位置し,五臺里よりその嶺域がはるかに狹かったことがわかる. 龍遊洞は田頭里の西にあるそうだが,問題は 「大東輿地圖」にみえる靑巖山がかえって五大里の北側に屬することである.この點については河受一の『松亭集』に收錄された「遊靑巖西岳記」を見るに,靑巖山とはある特定の山を指すのでなく,靑岩面の範圍に入る山全體に對する通稱であることがわかる.實はその中でも西岳, 卽ち七星峰の稜線がもっとも高く險しいので,その故に『晉陽誌』ではこれを靑巖山と呼んでいたのである.從って龍遊洞は大體靑巖山の麓であり田頭里の西側にあたる現在の明湖里ないしはその北側の坪村里ㆍ中梨里あたりの橫川江一帶を指するのといえる 獐項洞は『晉陽誌』の中のいろんな記述がら見て今日の大源寺溪谷にあり,その溪谷の途中,上流庵の下側より塔洞までにいたる長い谷を指すことがわかる.ここでいう塔洞とは山淸郡三壯面坪村里に今も殘る三壯寺址三層石塔に由來する地名であり,上流庵は今の大源寺あたりにあった寺刹である.だとすれば,當時一般的にいわれた獐項洞とは大源寺の下の方から塔洞にいたる峽谷地帶を意味するのであるが,河松亭は般石のある大源寺の上の方までを南冥の遊んだ獐項洞だと說明しており,溪谷の長さが三十餘里という場合の獐項洞はもっと廣く今日の大源寺溪谷全體を地稱したものである

목차
Ⅰ.序言 
Ⅱ.板峴洞 고향마을 
Ⅲ.龍遊洞 
Ⅳ.獐項洞 
Ⅴ.餘言
저자
  • 吳二煥