日本近代美術史上での大正期新興美術運動の意義のひとつは, 術家が?滑の美術の領域を超えて演劇, ダンス, 建築, 文芸といったさまざまな分野に果敢に進出し, 美術と他分野を合一した特異な美術表現を行ない, 美術の領域を大幅に擴大したという点に求められる. 美術と舞台の領域をまたぐ「人形座」もまた, この運動と密接なかかわりを持った. 人形座は伊藤熹朔(1899~1964)とその妻智子, 熹朔の弟の千田是也(本名·伊藤挑夫, 1904~1994)らを中心に, 1920年代の東京で活動した新興人形劇のグル─プである. これまで注目されることがなかったが, 新興美術運動にかかわる美術家が積極的に參加したことで, 日本に新興人形劇を勃興させたことや, この運動とさまざまな接点を持っていた点で, 美術史の視点から考察することに意義が認められる. 本發表では, 最初に, 活動の要となった1923年10月の試演會, 1926年9月の第一回公演會, 1927年7月の臨時公演會`─`以上の公演會の槪要とそのとき上演された作品`─`順にメ─テルリンク作「アグラヴェ─ヌとセリセット」, K.A.ウィットフォ─ゲル作「誰が一番馬鹿だ?」, 小山內?作「三つの願ひ」と「人形」のあらましを確認する. つづいて上演作品の內容が象침主義からプロレタリア, さらに一般大衆化へという揀化を見せたことに注目し, 上演툭時の社뀜的, 文化的環境を踏まえながら人形座が公演會ごとに目指した人形劇について浮き彫りにする. そして最後に人形座同人だった美術家の人形座以外での美術活動に注目しつつ 人形座と大正期新興美術運動とのつながりを明らかにし, さらに「美術の領域としての舞台」という視点を導入することによって, 人形座がこの美術運動におけるひとつの活動袴式であったことを浮き上がらせる.