朱子學と朝鮮建國(2)
주자학과 조선건국
1388年に威化島回軍という事件が起こった. この時期こそが儒學的意味での革命の時期だったにもかかわらず, 當時, 新しい政治勢力として浮上した儒學者官僚たちが想定していたのは革命ならぬ中興であった. ところが, 中興論をもって高麗王朝を立て直そうとした試みは難關に直面し, 槪ね1390年後半から1391年初頭にかけて, 中興から革命への戰略的な轉換が試みられた. そして, ここから中興對革命という對決構圖が出來上がり朝鮮建國までの1年餘りにわたる命縣けの鬪爭が繰り廣げられた. このような當時の政局を踏まえて革命について否定に近い肯定をした朱子の革命論を檢討し, さらに, 鄭道傳の革命についての思惑と行動を考察した. 1392年の鄭夢周の死は, 回軍以降展開してきた鬪爭の決着と同時に高麗の滅亡, そして朝鮮の建國を意味した. 朝鮮建國といえば, 通常最初にその名が擧げられるのは鄭道傳である. しかし鄭道傳は現にあった朝鮮建國という事件の主導者ではなかった. その事件は彼の手を離れて, 彼の意圖とは全く違う方向に展開された. それは簒奪による王朝交替であった. そのような王朝交替に向けての下準備が行われたあとに, 鄭道傳は中央政界に召還された.もし純粹な朱子學者だったならば隱遁すべきであったろう. しかし鄭道傳は出仕した. 自分の出仕は不義への投降ではなく, むしろ不義を正すためだという鄭道傳の辨を糾明した.