張顯光における理一元論と善惡の問題
장현광의 이일원론과 선악의 문제
초록 (Abstract) 張顯光は理一元論者である。 彼の一元論は理氣經衛說として表れる。 ところが、 價置を有する一理によって人ㆍ物が構成されるという一元論を採擇するやいなや、それは直ちに現實と矛盾を引き起す。 善たる理の主宰によって作られたと主張去れるにもかかわらず、 現實には善惡が混在する二元論的な狀況が展開するからである。そうだとすれば、善たる理によって主宰される世界にどうして惡が存在しうるか。 この問題を解決するために性理學の氣質の槪念が注目される。人ㆍ物は 「淸厚たる氣質を稟受すれば善類となり、 濁駁たるものお稟受すれば惡類となるが?、 それゆえ「事には是非があり、物には臧不があり、生命あるものにわ天壽があり、世上には治亂があり、國家にわ興亡あって、すべてそれを免れることができない」 という。 しかし理氣經衛論、すなわち、氣は善たる理の致用する道具だという觀點からすれば、理の主宰を受ける氣がどうして惡の原因とみなされうるかという疑問は、依然として殘る。 ここで氣勢の槪念が登場する。 氣勢は氣に內在する變化運動によって現れる氣の展開現狀あるいは趨勢であり、陰陽運動の結果として 「用が體に勝ち、末が本より重くなる」 勢が形成される。 そうすることによって一元論を維持しながらも善惡二元論的な要素が含れるということである。 しかし、後天的な氣勢がなぜ發生したのかという未解決の問題を殘すことによって、 一元論と二元論との 葛藤を完全に解消することはできない。 これは當爲を存在論の 次元で?明しようとした性理學に內在する問題たといえる。 存在論の立場からすれば、 すべての存在は善惡に關係せず、一理の主宰下で生成され、 氣は理の主宰下で多樣な差別性を作る道具として把握すればよい。しかし當爲論の立場からすれば、けして理の主宰の産物だとみなされてはいけない現象を發見するようにになり、それを再び氣や氣勢と結びつけて說明しなければならない。 二元論的な世界を一元論のわくでむりにとらえることによって、 生じる矛盾である。