萩原朔太郎の処女詩集月に吠えるや2番目の詩集青猫の中で、最も多く登場している詩語は手である。月に吠えるでは57回、青猫では29回出ているのが分かる。そこで身体部位を称する詩語の中に特別に両詩集で特に手が頻繁に登場している事実が分かれる。作品を通じて両詩集の全体的な手における意味を分析をしたい。月に吠えるからは分裂する自画像が見えていると言える。即ち、朔太郎自身の姿が作品の中に溶解されているのがわかる。この詩集の全般的な雰囲気には孤独、不安、歪みなどが見られるが、手という詩語を通じてそれがさらに投影されていると思われる。また、平凡な人の手の形態ではなく、歪んで苦しい自分の精神世界を表出していることが言える。そして2番目の詩集青猫からは、手を通して自分と他者とのコネクトに用いている媒介と見ることが出来る。両詩集の全般的な雰囲気が違うように朔太郎が詩世界を表す媒介の使い方も違うのがわかる。月に吠えるでは感傷の要素が強調されているとしたら、青猫からは情緒に焦点を合わせていると言えるだろう。