『懐かしい年への手紙』は僕が語る物語として読み取れる。だがK ちゃんと呼ばれる僕の過去は他者の記憶を受け入れて再構築されたものである。他者の記憶は森の中の谷間の村からの手紙や電話、ギー兄さんの翻訳文や僕が書いた小説、そして新聞記事として語られている。そのように、僕の物語言説の影には引用を通しての情報、僕の創作に向かう情報、そして自己省察による反省と他者の指摘による反省が混在されているといえるし、それが語り手として照応する。本稿ではそのように語り手のメタファーとして機能するものを語り手的装置と定義し、懐かしい年への手紙における語り手の物語言説を僕と語り手的装置に分離して論じた。その結果森の中の谷間の村に関する僕の記憶が僕と語り手的装置の混在している物語言説によって語られているのが確認できた。したがって僕が語る物語は森の中の谷間の村の 神話として再構築された記憶の物語であるという解釈が可能になる。
僕=語り手の解体、それがもたらした結果は二つある。一つ目は僕が他者との記憶を共有し、森の中の谷間の村を多様な物語言説として発信することができたということだ。すなわち僕が他者の記憶を受け入れ森の中の谷間の村での経験を物語内容として再構築する。その結果いま・ここの僕の物語言説が変化する。二つ目は僕が受け入れた情報によって僕の人生をギー兄さんの人生とともに物語言説として語ることができた。僕が物語言説として記憶を再構築するということは僕と森の中の谷間の村の人々が記憶することを再現して共有することだ。だから僕の物語言説が時間を順行と逆行に交錯していることは書き手として介入した結果ではなく、僕が順行と逆行の交差が行われた時間を記憶として受け入れたからだ。
最後に現実と夢の時間、僕と他者、そして都市と森の中の谷間 の村に分かれた二項構造を解体し、再び多項構造として再構築する。そ
の再構築に必要なのは以前の作品から構造化された一人称の僕のみであったといえる。次第にその構造から生み出された物語言説の中で、同一化された僕は反復と差異、照応と羅列の物語言説として解体される。しかし僕という語り手は物語内容として登場しながら再びその物語内容に閉じ込められてはならない。したがって、僕の物語言説が僕の記憶だけを語ることに閉じ込められる直前、語り手的装置が僕の痕跡を消している。そのように、僕と語り手的装置の物語言説が混在して僕の物語に照応した虚構への同化を拒んだ時、リアリティーの根幹に据える物語言説が生まれる。これこそが懐かしい年への記憶を語るため、僕が試みた三人称体の物語言説であろう。